283. 我が子も補完できる子に!
2019.11.02 20:00|学校教育との連携|
我が子は,友達を補完(不十分な部分を補って,完全なものにすること)できる子ですか,それとも見捨てる子ですか?
先般,ある町にあるJAの産直店に買い物に行きました。この店は以前行ったときに従業員さんが,
「いらっしゃいませ。」
と,とても気持ちのよいあいさつと対応がすがすがしく,しかも値打ちだったのでリピーターとして行きました。
カボチャが値打ちなので,比べていると少し変わった色目のものがありました。

珍しいものがあると手に取ると,何と白くみえたところはカビているのです。よく見るとそのブースのカボチャ10個程がすべてカビています。他のブースにも良いカボチャはありましたが,何か買う気がなくなりました。
そこで,従業員の男女(40代,50代)を見かけたので,親切心が起き,
「あちらのカボチャカビていますよ。」
と伝えました。バローや西友といった全国チェーンのお店なら
「誠にすいません。」
と言って直ぐにかたづけるので,そうした行動があると普通に思っていました。ところが,返ってきた言葉は,
「今日は引き取り日で,まだ来ませんので。」
と,
(自分のブースの野菜を取りに来ない農家は,いかにも迷惑だ。)

というように応えてきます。唖然として返す言葉を失ってしまいました。また,カビたカボチャを客の手に取らせたということを申し訳ないという姿勢も全くありませんでした。
もう一つ考えるべきことがあります。農家の方が,引き取り日の夕方閉店間際になっても来ていないということを迷惑ととらえるかどうかということです。
そのことを考えると,わずか10個くらいのカボチャを取り除いて,
「かびたカボチャは,はねておいたでね。」
と後で言うなどの協力体制があってしかるべきだと思いました。
この例を教育で考えると,野菜を子どもに例えては申し訳ないのですが,「カビている野菜」を「悩みをもっている子」,

「何かを訴えている子」,「病気の子」ととらえるとき,そうした子がいたら,それを他の部外者が教えてくれたら
「有り難うございます。早速対応します。」
として,事実関係を調べ,
(なぜそうした状態になったか。)
(どのように対応しようか。)
と必死に教師は考えるはずです。ここには子どもを思っての危機感があります。
また,自分が担任でなくても担任が来るまでは,それ相応の対応をします。
もう一点を教育という観点から考えると,「補完」ということです。教師一人一人は,毎日必死で授業に,生徒指導に取り組んでいます。ある先生が対応できなかったときには,子ども達をほっておくわけにはいかないので,どのように対応するかを学校態勢で考えています。
「どうして,自分のやるべきことをしっかりやらないの? こっちは迷惑しているのよ!」
「どうして,自分のやるべきことをしっかりやらないのだろうか? きっと訳があるはず。聞いてみよう。」
「どうして,自分のやるべきことをしっかりやらないのだろうか? きっと訳があるはず。聞いてみて,大変そうなら私一人でできないのならみんなに協力を願おう。」
つまり,人を非難し攻撃することは簡単です。でも,その人の立場になって応援してあげることが教師の姿勢です。その先生は,例えば,
そうした事情を聞かないにしても,思いやってお互いに補完する。これが学校の先生の姿です。こうした姿を我が子にも身につけて社会人にさせたいのです。
「与えよ,さらば与えられん!」は,キリストの有名な言葉ですが,
「人に親切をすれば,いずれそれは返ってくる。」
という意味です。確かに親切をしている人は困ったときは助けられていますね。
逆に,人を非難したり批判したりすれば,自分にその人でなくても何らかの形で返って来ている光景をよく見ますね。
我が子に,「補完し合う中で,自分も補完される。」,それも補完してもらうことを目的にするのではなく,その人の立場を慮って優しくして行く,そうした子ども達の人間関係にしていきたいものです。
我が子も含めて,子どもには,5つの願いがありました。その一つの「人の役に立ちたい」,この心をこうした事例で考えさせることで一層育てていただきたいのです。「補完できる子」って,なんて素敵なのでしょう。
先般,ある町にあるJAの産直店に買い物に行きました。この店は以前行ったときに従業員さんが,
「いらっしゃいませ。」
と,とても気持ちのよいあいさつと対応がすがすがしく,しかも値打ちだったのでリピーターとして行きました。
カボチャが値打ちなので,比べていると少し変わった色目のものがありました。

珍しいものがあると手に取ると,何と白くみえたところはカビているのです。よく見るとそのブースのカボチャ10個程がすべてカビています。他のブースにも良いカボチャはありましたが,何か買う気がなくなりました。
そこで,従業員の男女(40代,50代)を見かけたので,親切心が起き,
「あちらのカボチャカビていますよ。」
と伝えました。バローや西友といった全国チェーンのお店なら
「誠にすいません。」
と言って直ぐにかたづけるので,そうした行動があると普通に思っていました。ところが,返ってきた言葉は,
「今日は引き取り日で,まだ来ませんので。」
と,
(自分のブースの野菜を取りに来ない農家は,いかにも迷惑だ。)

というように応えてきます。唖然として返す言葉を失ってしまいました。また,カビたカボチャを客の手に取らせたということを申し訳ないという姿勢も全くありませんでした。
もう一つ考えるべきことがあります。農家の方が,引き取り日の夕方閉店間際になっても来ていないということを迷惑ととらえるかどうかということです。
◇ひょっとしたら交通事故にあって,来たくてもこれないのかもしれません。
◇急なお客さんが来たのかもしれません。
◇家族に病人が出たのかもしれません。
そのことを考えると,わずか10個くらいのカボチャを取り除いて,
「かびたカボチャは,はねておいたでね。」
と後で言うなどの協力体制があってしかるべきだと思いました。
この例を教育で考えると,野菜を子どもに例えては申し訳ないのですが,「カビている野菜」を「悩みをもっている子」,

「何かを訴えている子」,「病気の子」ととらえるとき,そうした子がいたら,それを他の部外者が教えてくれたら
「有り難うございます。早速対応します。」
として,事実関係を調べ,
(なぜそうした状態になったか。)
(どのように対応しようか。)
と必死に教師は考えるはずです。ここには子どもを思っての危機感があります。
また,自分が担任でなくても担任が来るまでは,それ相応の対応をします。
もう一点を教育という観点から考えると,「補完」ということです。教師一人一人は,毎日必死で授業に,生徒指導に取り組んでいます。ある先生が対応できなかったときには,子ども達をほっておくわけにはいかないので,どのように対応するかを学校態勢で考えています。
「どうして,自分のやるべきことをしっかりやらないの? こっちは迷惑しているのよ!」
「どうして,自分のやるべきことをしっかりやらないのだろうか? きっと訳があるはず。聞いてみよう。」
「どうして,自分のやるべきことをしっかりやらないのだろうか? きっと訳があるはず。聞いてみて,大変そうなら私一人でできないのならみんなに協力を願おう。」
つまり,人を非難し攻撃することは簡単です。でも,その人の立場になって応援してあげることが教師の姿勢です。その先生は,例えば,
①家庭問題で,舅や姑とうまくいかずに苦しんでいて,ついそこまで意識が回らないのかもしれません。
②わが子の病気や非行で対応していて,悩んでいるのかもしれません。
③対処の仕方がわからず,「そんなことわからないの」と言われることが怖く,まわりの職員に自分から聞いていくことができないのかもしれません。
④持病に苦しんでいるのかもしれません。・・・・・・・
そうした事情を聞かないにしても,思いやってお互いに補完する。これが学校の先生の姿です。こうした姿を我が子にも身につけて社会人にさせたいのです。
「与えよ,さらば与えられん!」は,キリストの有名な言葉ですが,
「人に親切をすれば,いずれそれは返ってくる。」
という意味です。確かに親切をしている人は困ったときは助けられていますね。
逆に,人を非難したり批判したりすれば,自分にその人でなくても何らかの形で返って来ている光景をよく見ますね。
我が子に,「補完し合う中で,自分も補完される。」,それも補完してもらうことを目的にするのではなく,その人の立場を慮って優しくして行く,そうした子ども達の人間関係にしていきたいものです。
我が子も含めて,子どもには,5つの願いがありました。その一つの「人の役に立ちたい」,この心をこうした事例で考えさせることで一層育てていただきたいのです。「補完できる子」って,なんて素敵なのでしょう。